19歳~27歳

都会育ちで、海が好きだった。たどり着いた漁師の仕事。

大自然豊かな北海道・十勝と出逢い、一次産業に就くことを決意した。

東京生まれの東京育ち。
順調な人生で「生きることの意味」を考えたのは、両親の希望通り入学した進学校での高校生活だった。
自分のやりたいこととやれること、理想と現実、そして夢…。
真面目に生き方を模索した。
漠然と海への憧れから進路に静岡県の清水海洋学校を選ぶ。
一度は内定した海洋調査会社への就職も、毎日でも海に出たいという願いが叶わず、悩んだ末に辞退した。
ある日、アルバイトの最中、「北海道十勝酪農実習」の求人記事を見つけた。
十勝での1年間の酪農実習がスタートし、牛と過ごす毎日を通して生き物を扱う仕事の厳しさと喜びに触れる。
この経験で大自然の中で何かを生産する一次産業を生涯の仕事にしたいと決意する。

憧れの漁師を目指し、釧路から小樽へ。歩き続けた2ヶ月間。

海が好き、だから漁師になりたい。
素直な気持ちを叶えるためリュックとテントを買い込み、釧路港をスタート、北海道の太平洋側の漁港を片っ端から訪ねた。
漁師を見つけては「雇ってもらえませんか」とお願いしたが、望む答えはくれない。
1日約50キロを靴底に穴が開くまでひたすら歩き続けた。
寝泊まりは海岸や公園にテントを張り、携帯コンロでご飯を作った。
白糠、厚内、大津、大樹、広尾、えりも、日高、苫小牧、長万部、奥尻、そして最後は日本海に渡り小樽まで北上した。
2ヶ月間歩き続け、唯一、OKを出してくれたのは、再び訪れた浦幌町厚内漁港の老漁師だった。
その時の所持金は55円。

再び訪れた浦幌町。町の人たちの温かさに触れた。

「やっぱり雇えない」。
ようやく、漁師としてスタートをきる時に老漁師から言われた。
彼のもとで働いていた漁師が事故で亡くなったため、ためらいが生まれていた。
漁師への道は簡単ではなかったがあきらめる気もなかった。
唯一、救われたのは、浦幌町の人たちの温かさだった。
町内にある民宿の主人に、家賃8000円の家を紹介してもらい、ひとり暮らしを始めた。
農業、林業、酪農のアルバイトをしながら、漁師の求人を気長に待った。
そんな一風変わった存在は町の同年代の好奇心を呼び、気がつけば飲み仲間になっていた。

念願達成!生粋の東京人が漁師の世界へ。前例のない新規参入だった。

「一度でも船酔いしたらクビだぞ」。
地元の仲間たちの応援で、一度は断られた老漁師を口説き、念願の漁師に。
いよいよスタートした漁師。
都会育ちの自分をまわりに認めてもらいたくて、50キロだった体重を筋トレで75キロまで鍛え上げ、どんな重いものでも持ち上げられるようになった。
網を揚げる時のドキドキ感や、収穫の重みを感じた時の高揚感はほんとうに魅力的だった。
それこそ原始時代から続く狩猟・採集の世界は、海の状態と腕次第である。
漁というのは一種のギャンブルかもしれない。
船に乗るたびにつねにそう感じた。
そして、そんな漁師の仕事がおもしろくてしょうがなかった。

自ら、消費者へ届けたいと強く思った。»